こんにちは。
あなたはこれまでどんなゲームをプレイしてきましたか?
私は、最近でこそあまりゲームをする機会は少なくなってきたものの、自分の人生を振り返ってみるとかなりの時間とお金をゲームに費やしてきました。ですが、あれだけ夢中になったゲームなのに、時を経るごとに少しずつですが忘れてしまっていっています。そして、それはゲームに限らず、自分が楽しかった思い出なども少しずつ薄れてしまっている気がします。
そこで、今回は、自分のゲーム遍歴をふりかえりながら、昔の自分を思い出して記録に残してみようと思います。
第Ⅰ部 学生時代
第一章 小学校時代(前半)
1979年『スペースインベーダー』
私がはじめてプレイしたゲームは『スペースインベーダー』です。
『スペースインベーダー』(Space Invaders)
株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したアーケードゲーム。これを初めとする同社の後継製品、他社製の類似商品・模倣品を総称してインベーダーゲームと呼ぶ。(Wikipediaより)
発売は1978年ですが、私がプレイしたのはおそらく1979年くらいだと思います。1979年といえば、私はまだ6~7歳くらい。当時、近所のAコープに隣接された喫茶店の外側にテーブル型の筐体が4~5台並べてあったのを覚えています。1プレイはたしか30円でした。
30円といえば、二つに割って食べられるアイス『ダブルソーダ』が同じ30円だった気がします。
小学生だった私にとってそれ程安い金額ではありませんでした。ですから、プレイしたのもたぶん1~2回程度で、あとは一緒にいった友だちや他の大人たちがプレイする様子を眺めていたような気がします。
その後、その喫茶店の『スペースインベーダー』は、教育上好ましくないという理由で学校から行くことを禁じられ、お店の外に並べてあった筐体もいつの間にか無くなっていた気がします。
そして、この時点では、私はまだそれ程、ゲームに興味があったという訳ではありませんでした。この頃はまだ『ドラえもん』の漫画やテレビの『タイムボカンシリーズ』(当時は『ヤッターマン』)に夢中だったのです。
1980年その1『テレビベーダー』
私がはじめて夢中になったゲームは、エポック社が1980年に発売した家庭向けテレビゲーム『テレビベーダー』です。
テレビベーダー(TV VADER)
エポック社が発売した、タイトーの『スペースインベーダー』を家庭用テレビゲームにアレンジしたもの。これまでも『スペースインベーダー』を移植したゲーム機はあったが、いずれも高価なマイクロプロセッサを使用したカセット交換式のゲーム機で価格も5万円を超えたため普及しなかった。そんな中で本機は『インベーダー』専用ながら16,500円の価格設定で、かなりの普及を見せた。(Wikipediaより)
この『テレビベーダー』は、母方のいとこが購入したものが購入したものを貸してもらうことがありプレイしました。ハマった一番の要因はお金。『スペースインベーダー』とちがい、家庭用のゲーム機では何度やってもお金が掛からないということで、何回でも気軽にプレイできたことでゲームの面白さに気づき、夢中になってプレイしました。
『スペースインベーダー』とちがい、襲い掛かるインベーダーの数は8匹と控えめでした。これは安価で販売するための工夫でしたが「1匹のインベーターを何度も撃たないと撃破できない」「インベーダーの数が少なくなると移動が速くなる」といった仕様は、本家の雰囲気をうまく出しながら白熱した攻防が楽しめるものでした。
このいとこは、この『テレビベーダー』をはじめ『ゲーム&ウオッチ』をはじめとした『LSIゲーム』や『FLゲーム』『ポケットコンピュータ(ポケコン)』など、私のゲーム遍歴に大きな影響を与えた一人だったと思います。
1980年その2『ブロック崩し』
1980年にもう1つ夢中になってプレイしたゲームがあります。それは任天堂が1979年に発売した『ブロック崩し』です。
ブロック崩し
ゲームセンターで人気を博した他社(アタリ)のブロック崩しを家庭向け製品にしたもの。任天堂が初めて自社開発した製品である[7]が、開発に手間取り販売時期が遅れたため売り上げは伸び悩み、販売台数は約40万台だったという。価格は13,500円だった。(Wikipediaより)
この『ブロック崩し』を購入したのはうちの父でした。いとこから借りた『テレビベーダー』を返してしばらくたったある日、とうぜん購入してきたのです。
父がどうしてこの『ブロック崩し』を購入したのか、その本当の理由はじつは良くわかりません。というのも父自体は『テレビベーダー』も『ブロック崩し』もほどんどプレイすることがなかったからです。
そして、この『ブロック崩し』がわが家にやってきてからしばらく、近所の子どもが集まってみんなでゲームをすることがあったような気がします。当時の私はかなりの人見知りで、家の中で絵ばかり描いているような子どもだったので、それはとても珍しいことでした。
また当時は、テレビは一家に一台の時代でしたので、何時間もテレビを占領し続けてゲームをするということはもちろんありませんでしたが、今思い返すとこの頃、テレビゲームについて父から苦言めいたことをいわれたことも無かった気がします。
今思えば、自分があまりすることのないテレビゲームを買ってきてくれた父の姿は、今、子どもに『WiiU』や『Nintendo Switch』『ゲーミングPC』を買う私自身と同じような気がします。
私が、自分があまりやらなくなったゲームを子どもに買うのは、子どものことがすきだから。
そう考えると、口下手な父は不器用ながら私や弟のことを愛してくれていたような気がします。
父はその後も、いきなり『MSX』を買ってくれたりしたこともあるなど、自分ではあまり触らないながらもそういうものに興味があったのかもしれません。そんな父は、いとこと同じく、もしくはそれ以上に、私のゲーム遍歴に大きな影響を与えた一人だったと思います。
1981年『ゲーム&ウォッチ』
次に私が夢中になったゲームは任天堂が1980年より発売した『ゲーム&ウォッチ』でした。
ゲーム&ウオッチ(ゲームアンドウオッチ、GAME&WATCH)
任天堂が1980年より発売した携帯型液晶ゲーム機(電子ゲーム、LSIゲーム)。CMなど一般での呼称は「ゲームウオッチ」。第1作は1980年4月28日発売の『ボール』。
手元で遊べる手軽さが受けて社会現象にもなり、日本での売り上げ総数は1287万個、日本国外では3053万個で、合計4340万個。当時の任天堂が抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済し、それでも40億円程の黒字がでるほどの大ヒットを記録し、その黒字をファミリーコンピュータの開発投資したことでも知られる。任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作ったゲームにして「ゲーム&ウオッチは任天堂のゲームの原点」。(Wikipediaより)
私がはじめてプレイした『ゲーム&ウォッチ』は『マンホール』でした。購入したのは、またしてもいとこでした。
『マンホール』
『マンホール』
ゲーム&ウォッチ第6号(ゴールド)。4つある穴にマンホールのふたをして、歩いてくる人を落ちないようにするゲーム。
当時、このゲーム&ウォッチは小学生にも大人気で、みんなで集まってはそれぞれのゲーム&ウォッチを交換して遊ぶことも多くありました。その中でもよく覚えているのは『オクトパス』と『タートルブリッジ』というゲームです。
『オクトパス』
『オクトパス』
ゲーム&ウォッチ第9号(ワイドスクリーン)。潜水夫が、大だこの足を避けて財宝を持ち帰るゲーム。
『タートルブリッジ』
『タートルブリッジ』
ゲーム&ウォッチ第15号(ワイドスクリーン)。亀に乗って海を渡るゲーム。
この『ゲーム&ウォッチ』が爆発的にヒットしたのは、『ブロック崩し』や『テレビベーダー』といったテレビに接続するタイプに比べより手軽にプレイできるのと、テレビを占有しないことが大きかったのかもしれません。
今の子どもたちからすれば、何が面白いか、そして自分でも何が面白かったのか良くわからないようなとてもシンプルなゲームばかりですが、私を含め当時の子どもたちは夢中になって『ゲーム&ウォッチ』をプレイしていました。
しかし、この時はまだ私自身は自分の『ゲーム&ウォッチ』は所持してはいなかったのです。
1982年『スクランブル』『ドンキーコング』
任天堂の『ゲーム&ウオッチ』の爆発的なヒットにより、バンダイ・エポック社・学研など様々なメーカーが参入するようになったLSIゲーム市場。その後も各社が競い合いながらさらなる進化を続け、1982年を過ぎたあたりからはさまざまな趣向を凝らしたゲームが登場するようになってきました。
そんな中、いとこが新たに購入したゲーム。それがトミーが1982年に発売したFLゲーム『スクランブル』でした。
『スクランブル』(Scramble)
1982年にトミーより発売された横スクロールシューティングゲーム。オリジナルはコナミが1981年に発売したアーケードゲームを、トミーがFLゲーム用にアレンジした。
FLゲームとはLSIゲームと同じ電子ゲームで、真空管の一種である蛍光表示管(FL管)を使ったゲームのこと。やや大型で消費電力も大きく高価だったものの色彩豊かな表示と見やすい画面を特徴としていた。
このFL版スクランブル、当時の携帯ゲームとしては画期的な「画面のスクロール」などを再現するなどたいへん完成度が高く、ステージ構成からエネルギー補給制度、地上への攻撃など、オリジナルの雰囲気がとてもよく再現されていました。
ちなみにオリジナルの『スクランブル』は後の大ヒット作『グラディウス』(1985年)へとつながる作品ともいわれるコナミ初期の名作ゲーム。あのナムコの名作シューティングゲーム『ゼビウス』の制作者・遠藤雅伸さんが「『ゼビウス』を製作するにあたり、『スクランブル』を縦にしたゲームを作ろう、というところから始まった」と語ったといわれています。
この頃になると、いとこはゲームをプレイするだけにとどまらず、実際に自分で制作することに興味を持つようになっていました。そして実際に、その頃ブームになっていた『ポケットコンピュータ(ポケコン)』で簡単なゲームを作ったりしていました。
ポケットコンピュータ(ポケコン)
関数電卓を元にプログラミングできる計算機として開発されたプログラム電卓の一種である。
1980年初期に誕生し、当時高価なパソコンに比べてポケコンは学生でも買えるリーズナブルなコンピュータであったため広く使われた。(Wikipediaより)
一方、私はこの年に発売された『ゲーム&ウォッチ』のマルチスクリーンシリーズ『ドンキーコング』を、2歳年下の弟との共有ゲームとして購入してもらいました。
『ドンキーコング』
出典 twitter.com
『ドンキーコング』
ゲーム&ウォッチ マルチスクリーン第2号。任天堂が1981年に発売し大ヒットしたアーケードゲーム『ドンキーコング』のゲーム&ウォッチ版。
アーケード版の25mをアレンジした上下二画面の構成で、上部にあるクレーンに飛び移り、ドンキーコングの足場にかかったフックを外していく(4つ外すとドンキーコングが落下する)という内容。
初めて十字ボタンを採用したゲームとしても知られる。このプラットフォームでは主人公の名前が「救助マン(海外版はMARIO)」と説明書に記載されている。(Wikipediaより)
この『ゲーム&ウォッチ』のマルチスクリーンシリーズは、その後に任天堂のゲーム機の躍進につながる先進的なデザインでした。
1つはその後のゲームコントローラーに大きな影響を与えた「十字ボタン」の採用。この十字ボタンはその後ファミリーコンピュータをはじめとした任天堂のゲーム機に受け継がれていきます。
さらにこのフォルムは、のちに発売され大ヒットを記録した携帯ゲーム機『ニンテンドーDS』に影響を与えているのです。
数ある『ゲーム&ウォッチ』のゲームの中でも、この『ドンキーコング』はとてもテンポが良くて遊びやすいゲームでした。私も弟と一緒に、最高得点999点が出せるくらいに夢中でプレイしました。
まとめ
軽い気持ちで書き始めた私のゲーム遍歴でしたが、まだファミコンも登場しないのに結構な文章量になってしまったので、今回はいったんここまでとします。
次回は「小学校時代(後半)」。ファミリーコンピュータの登場までのゲーム遍歴をふりかえってみたいと思います。
ゲーム遍歴からふりかえる私の自分史その1【スペースインベーダーからゲーム&ウォッチまで】の記録の紹介は以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。
コメント
迷子だ!迷子!絶賛迷子中!
猫月さんオイルパニックやった!
二つ折りになるやつ!
なつい!
猫月さん (id:necozuki299)さん、コメントありがとうございます。(さんさん?)
オイルパニックは一番はじめにマルチスクリーンのゲーム&ウォッチを買った友だちにやらせてもらったことがありました。一本道のドンキーコングに比べると少し難しかった気がします。それにしても、今回、調べてみて知りましたが、マルチスクリーンの作品は他にもたくさん出ていたんですね。私はオイルパニックとドンキーコングの2作品しか知りませんでした。